硬質な自分の足音だけを聞きながら、シリスはラズリルの路地を行く。 今日の任務の前に紋章を宿しておこうと思い立ったのだ。 考えた末、結局仕事に関することしか浮かばない自分にうんざりするが、それが自分なのだから仕方がないとシリスは半ば諦めの姿勢に入っている。 騎士団にももちろん専属の紋章師が在籍しているのだが、外の空気を吸いたかったシリスはわざわざ人通りの少ない路地裏の紋章師を訪ねる最中であった。 暗い路地裏の中でもそのまた光の乏しい場所に店を構える紋章屋は一般人やその他の騎士達からの評判は芳しくないのだが、しかしその中でも抜きん出た実力者たちは密かにこの紋章師のリピーターになりつつあるらしい。 シリス自身もこの紋章屋のことをつい最近まで知ることは無かったが団長のグレンの紹介でその存在を知った。 扉の数を数えながら歩いていたシリスは教えられた扉の前で足を止めた。 建物を眺めてみても看板一つ見つけることが出来ない。 扉の横の小さな窓にもカーテンがきっちりと閉められているようで中の様子を窺い知る事もできないようだった。 黒塗りの扉に付いているドアノブの取っ手をまじまじと見つめてみると二つの赤と青の宝石が嵌められているのがわかる。 グレンから聞かされたとおりのものだ。 シリスは一呼吸置いた後に、そのドアノブに手をかけた。 蝶番の微かな軋む音共にやや重い扉を押し開けた。 足を踏み入れる前に店内に目をやるとそこは薄暗く、怪しげな用途のわからない物たちが乱雑に飾られた棚が目に入った。 大して広くは無い店内の数箇所に設置されたランプの乏しい光を浴びて、微かな光を反射してはちらちらと煌く。 眺めてみると宝石を嵌め込まれた芸術品のようなものや豪奢な器などが主な様だ。 金製のものが多いのだろう、薄暗い部屋の中は至る所で濡れた様な輝きをちらつかせていた。 微かに漂う香の甘い香りも相俟って、エキゾチックで幻想的な雰囲気を醸し出していた。 「いらっしゃい」 何も考えないまま店内を眺めていたシリスに声をかけてきたのはカウンターに肘を突いた妖艶な美女だった。 こんな片田舎では見かけたことがない、垢抜けた女性だ。 露出の激しいドレスを身にまとった女性は艶やかな笑みを浮かべてシリスを迎える。 「今日はどんな御用かしら?」 小首を傾げると高い位置から結った波打つプラチナの髪と美しい細工の耳飾がふわりと揺れる。それを眺めた後、シリスはカウンターに近付き用を告げた。 「紋章を宿してもらいに」 「どんなものにしようかしら」 彼女はそう言った後に、しばらくその美しい瞳でゆっくりとシリスを見つめた。 初対面の相手に観察するかのようにじっと見られているというのに不快に思わないことにシリスは不思議な感覚を覚えた。 それは彼女の容姿というよりも人柄から齎されるものなのだろうと察する。 「そうね、あなたの魔力値はとても稀有なものみたいだわ。どの子とも相性が良さそうだけど補助を目的としているなら・・・水か風といったところかしら」 そう言って彼女は背後のやはり複雑で美しい細工の引き出しの中から光を孕んだ珠を取り出した。 それぞれ柔らかな青と緑の発するそれは水と風を宿した封印球だろう。 「どちらにしようかしら?」 女性は思案するシリスの瞳を優しく覗き込むと、 「そうね、水にしましょう」 と一人納得したように言うと手を差し出すようにと促した。 どちらとも決めかねていたシリスは何も考えずに、白い左手を差し出した。 + 「あら、そちらにするの・・・?」 シリスの白い手の甲に、女性は注意深く見つめながら呟いた。 剣士としては細い手首から伸びる手の白さは普段頑丈な手袋に守られているため傷一つ無いどころかまるで女のように白かった。 さすがに女性のようにたおやかとは言いがたく骨ばっていて、剣を使うために掌のほうの皮膚は硬い。しかし同じ同僚たちに比べれば感嘆されるほどの綺麗な手だった。 その左手を女性は困惑したように見つめた後に嘆息した。 「どうかしましたか?」 訝しげなシリスの問いに女性は微笑みを浮かべたが、その左手は下ろす様にと言う。 「なぜ?」 「貴方の左手は既に宿すべきものが決まっているみたい。それはこの紋章では無い様よ」 今度はシリスがその言葉に困惑の表情を浮かべる。 「大丈夫よ、貴方なら右手でもしっかりと紋章の力を発揮できるから。 あら、そうだわちょっと待っててくれるかしら?」 そう言うと彼女はカウンターテーブルに置いてある金属と水晶の細工で出来た小さなベルをチリン、と鳴らす。 微かな音であったが、しかしそれは美しく研ぎ澄まされたかのような音色で、どこまでも響くかのように感じられた。 美しい余韻が消え入る頃。 その音を聞きつけたのか、カウンターの奥に隠される様に閉じきられていた扉が静かに開いた。 吸い寄せられたかのようにそちらを見つめるシリスの目の前に現れたのはまだ子供の頃を脱し切れていない少年の様だった。 頭からすっぽりと不思議な紋様の布を被った少年が音も無く彼女の隣に立つ。 「あれを出してもらえたかしら」 彼女の言葉に、少年は無言で懐から複雑な紋様の布に包まれた珠を取り出しそっと渡す。 「ありがとう」 少年は微笑んだ彼女に頷くとまた同じ扉を同じように静かに潜って店内から姿を消した。 シリスは無言でその後姿を眺めていた。 少年が現れたその瞬間から、なぜか目を離すことが出来なかったのだ。 無意識に、その少年を追う。しかし身体は動かず声をかけることもできずに立ち尽くしたままに終わった。 「こちらを」 そう囁かれたように聞こえた彼女の声に、戸惑いつつもその手の中の物を見下ろした。 女性の磨き上げられた美しい指先がゆっくりと布をどかすと、シリスの思ったとおり柔らかな青白い光が漏れ出してきた。 それは先ほどの水の紋章と似通った光であるがこちらのほうがどこか幻想的だ。まるで水が流れるかのようにゆらゆらと揺れながら輝いていた。 その紋様も水のものよりもやや複雑なようだった。 「これは流水の封印球」 愛おしそうに青白い光の源を撫でながら彼女が言った。 「なかなか気難しい子なのよ。長い時間主を持たずにいたようだけど、どうやら貴方のことはお気に召したみたい。さあ、右手をこちらに」 シリスが言われたとおりに右手を差し出し甲を上に向けると、彼女の手の中の紋章が一際強く輝きだした。 右手に何か流れ込むような、細いがしっかりとした流脈を感じた。それは清々しいものを感じさせる冷水のようで、包み込むような温もりを感じるようで。右手から全身に広がるような不思議な感覚に酔いそうになる。 光がゆっくりと失せていく頃にはシリスも平常に戻り、彼女の中から美しい光を孕んだ珠は消えていた。 そして水面が揺らめくかのような微かな光を放つ紋様がシリスの右手に刻まれていた。 「これで完了よ」 「・・・・。」 シリスは彼女から返された右手を頭上に掲げしみじみとその不思議な紋章を見つめた。 じっくりとそれを見つめた後に微かに頷き、いつもの手袋でその手を覆う。弱い光は厚い皮の手袋に阻まれ簡単に消えてしまった。 「代金は幾らくらい?」 「結構よ。長い間見つからなかったその子の行く先を見れただけで私は満足しているの。大事にしてあげて頂戴ね」 不満気味な表情を浮かべたシリスに対してまるで子供に言い聞かせるかのような甘い表情を浮かべ彼女は言うと、ゆっくりと立ち上がった。 シリスを店の出口まで見送るつもりのようだった。 「シリス、貴方の本当の目覚めを祈っているわ」 扉の外、数段の段差のおかげで身長差の無くなったシリスの額に彼女は願うように唱えて軽く口付けた。 「・・・っ」 素早く身を離したシリスのもの言いたげな青い瞳を見つめて、また彼女は慈しむように目を細め微笑んだのだった。 20120427 ← → novel |