-綻-



 その日、海は悲しげに静間にかえり。
 私はこの異様な目で見ることもなくわかっていた。

 人々は消えた姫を思い、皆が涙しているのだ。
 青いこの揺らめく海の中に、いったい幾人の人々の涙が溶けているのか、私はそれも知っている。

 海に住む民。全てが狂おしく胸を締め付けられ、失望を感じていた。

 姫は恋に落ちた。この海では交わすことの出来ない陸の人間に。
 陸に住む王子に恋をしたのだ。
 私も誰も、姫を止めることは出来なかっただろう。

 そして恋は、姫をこの海から消し去った。


 嗚咽が微かに耳に届く、深い深い海の底の闇の中。私の住む世界の片隅のような暗い洞窟に、あの時姫が訪れた。
 私は一目見て姫の輝かしい美しさに胸を締め付けられ、まるで狂おしい想いを懐いたのだ。

 人間に恋をした姫に、私は声と引き換えに数日間人間の身になれる薬を渡した。
 そして姫はその身を忌まわしい人間の身に変え、海を捨てたのだ。

 この海から、光と希望と姫を奪ったのは、人間と人魚の壁と人間の王子と姫のまるで幼い恋心と、そして私。

 海の魔女と煙たがられる、この私なのだ。


 姫が消えてから二日経った頃だった。
 時にはまどろみ、胸を締め付ける痛みを感じたら姫の歌声で自分を慰める日々を送っていた私はうつらうつらと、光など見当たらぬ海底を泳いだ。静かな潮の流れがざわざわ耳の内をくすぐるようで、私はそれに顔をしかめた。
 誰かが、こちらに泳いで来る。海ならばどんな暗闇も壁をも越えて見渡すことの出来る目を持つ私はそちらに視線をやった。

 美しい二人の娘がこちらに泳いで来ていた。
 長い海の青の髪をたゆたせる二人の娘は、姫に酷似した美貌をしている。言わずと知れた、この海を統べる王の娘達だ。

 二人はいまだ闇に溶け込む私の姿に気づくことはない。
 私は微かな動揺に身を震わせ、そしてゆっくりと彼女達に声をかけた。

「御用はなんだい?海の姫君達。」
 二人の姫は突然聞こえた私の声に酷く驚いた様子で、大きく体を震わせこちらを見た。
「貴方が海底に住まう海の魔女?」
 年かさのほうの姫が言った。
 低い女の声がゆっくりと耳に馴染むのを感じ、私は久しぶりにあの美しい姫の歌声以外の声を聞いたことに気がついた。
 姉姫であろう彼女は強い眦で私をねめつけ、無表情に見下ろす私を硬い表情で見上げてきた。強気なその表情は王の気質と容貌を色濃く受け継いでいるようだ。
「私たちは海の王の娘。」
「存じておりますよ、この海であなた方のことを知らぬ愚かな者が居るわけがありません」
 私の嘲笑を含んだ声色に、今度は後ろに控えていた妹姫が優雅にすういと泳ぎ出た。
「ならば、私たちの末の妹姫をご存知でしょうに。」
 彼女の麗しい美貌に、私ははたと息を詰めた。自分の胸中に動揺が生まれ、それは全身へとゆるやかに伝わっていく。
 妹姫は、先日私の元に訪れた姫ととても似通った容貌をしていた。
 姉妹であるのだから、それは当たり前とも言えることなのだが、しかし些細な酷似が、たとえばその小さな顔や目鼻立ち、ふとしたようなクセや声の音が。微かに光を放つような淡い海水の青の髪や。
 私は性懲りもなくまたざわりとした甘い衝動を感じ、そして彼女ではないのにと私の軽々しいその心を憎んだ。
 暗い闇の底に身を窶していた私は何かに飢えているのか、久々のその他人というものにありありとした飢餓を自覚していっていた。
 妹姫がまるい瞳で私を見上げた。
 優しげでありながら威圧する威厳をやんわりとかもし出すその姿は、やはり王の娘なのだと感慨深い気持ちになる。
「私たちの妹の末の姫の行方を、貴方はご存知なのでしょう?」
「ええ。」
 私はゆっくりと瞳を伏せ、噛み締めるように頷いた。
 顔を遮る長い黒髪と黒い布に強い視線を感じ、私は唯一覗く口元でわざと笑みの形を作った。
「あの子は、人になったのですか。愚かな人間の身になって、この体を変え、この海を本当に捨てたということなのですか?」
 妹姫は苦悶に悲しげに振るわせた声で私を睨み、震える口元で言葉を紡いでいた。
 私は二人の姫を見つめた。
 それぞれの面持ちは張り詰めた心情を曝け出す厳しく切羽詰ったものだ。美貌を歪ませ、切なる想いを懐きながら私を窺う。
 だが。
 私はしかし、彼女達が望む言葉を言うことは出来ない。いつわりの慰めが不要なことは私だけでなく、誰もが知っている。いま誰もが欲するのはそれではなく事実で、死刑宣告のような私の言葉を望んでいる。
「わかっているのでしょう、お二人とも。あなた方は心の奥底で、事実を知っている。」
 私はゆっくりと、噛み締めるように言い。彼女達の表情を見つめ、そして、まるで自分自身を窺い見るような、なにやら卑屈なものを感じ、くつりと笑いそうになる。

 鋭い眼差しに、射られた。

「あの子をこの海に取り戻すには一体どうすればいいのか、貴方に聞きに来ました。」
 見返りさえあれば、貴方は願いを叶えてくれるのでしょう?姉姫が上目で私を見て言う。
「あの子から、一体何を得たの?」
「声を。」
 私の呟きに、二人の姫は痛ましい顔をする。

 瞼を下ろせば、深い闇の中。一層の闇を感じ、微かな水流にまぎれ今も耳の内に残る美しい歌声。

「あの子は・・・」
 姉姫は切なそうに瞳を細め、細いしなやかな両腕で自分の身を包んだ。
 妹姫は眦に涙を浮かべているらしく、微かな息遣いが乱れる。涙が、またこの海に溶ける。
 その声さえも捨てていける。純粋な姫は、この重さをやはり真に知っては居なかった。
 自分の身は姫だけのものではない。
 それは姫以外の誰もが知っていることだったのに。
 私だってそうなのだ。

「あの子は、この海を捨てるほどに大事なものを見つけてしまったの」

 朗々とした妹姫の声が耳を打った。微かな呟きであったろうに、それは痛いほどに鼓膜を震わせ脳に浸透し・・・
 手に掴める事のない現実を知らせめた。

「声すらも、何もかもをあの子は捨ててしまえたの。海を・・・私達を、お母様も・・・人々を。愛してくれたお父様を。」
 苦しげな声は微かに恨みを孕み、切なさだけが去来しているのか悲しげな音で響く。
「お願いがあります。」
「何を?」
「私達にたった一つの猶予をください。」

 姉姫が強い眼差しで私を見上げた。悲しさに揺れようと、変わらぬその眼差しが私を打つのだ。輝かしい瞳。しかし救いを求める瞳。

「私達はどうしても、まだあの子を諦める事などできることがないの」
 二人の姫はそう言い、求める瞳は私の答えを待った。
 ざわめきが、私の意識を流す。かすかな流れに、さらわれそうになり、二対の瞳がそれを留める。深い海の底に、これほどまでに輝きを放ち光が私を照らすのだ。
 照らし出されるわけにはいかない。この愚かで醜い私が誰の目に触れて、一体誰が喜ぶのが。それは恐怖や、悲しみを誘うばかりだ。
「ならば、」
 私は小さく呟いた。

「あなた方のその美しい御髪と引き換えに、この短剣をお渡ししましょう」
 私の言葉に二人の姫は怪訝な表情をした。そして、私が黒衣からゆっくりと取り出した美しい装飾の施された鞘に収まった短剣を見つめた。
「それはなんの為に使うものなんです?」
 美しい、しかしその凶器を二人の姫はそれぞれ恐れを感じながら見つめていた。
 あの美しい姫も、この手に持った短剣を見つめた時、悲しみと恐怖に歪んでしまうのだろうか?
「この短剣を」
 掲げるように持ちながら二人の姫の前に短剣を差し出した。
「貴方達の最愛の姫に渡しなさい。そして、」
「そして?」
「彼女に愛する王子をこの短剣で殺すように説得しなさい」
 私の言葉に二人の姫はさっと顔色を変えた。その表情は強ばり、瞳は怒りをはらんで私を睨め付けた。
「何を、」
「そしてその王子の鮮血をその身、脚に浴びれば・・・姫の脚はたちまち元の美しい鱗に覆われた海に生きし姿に戻りましょう」
「妹に、あの子に人を・・・しかも愛した人を殺めろというのですか?」
 姉姫が固い声で言いながら私を睨む。妹姫は顔色を悪くし、私が掲げる短剣を心細そうに見つめていた。
「その通りです。私は、これ以外の方法を何一つ知りません。」
「なんて、残酷な・・・」
 声を震わせながら言ったのは、一体どちらの姫君だったのだろうか。
 そう、なんて残酷な。

「そうしなければ、彼女は泡となって消えてしまうのです」








 二人の姫は必死で海上を目指した。
 私はその後姿をいつまでも見つめていた。
 ここへ訪れた時の優雅さを掻き捨てて、ゆらりと舞う美しい髪も躊躇なく姫君たちは切り捨てた。
 美しい髪が無残に首元で断ち切られていても、二人の美しさは変わらない。
 信念を宿した瞳は輝くばかりだ。
 その瞳が絶望に染まろうとも、それでも奥底の瞬きは・・・

 二人の姫の後姿が見えなくなった後、私は短剣の代わりに手の中に納まった美しい編み込まれた潮にふわりと揺れる髪を見つめた。
 踊るように揺れる髪が、ここには無いものを知らしめる。

 存在自体が、罪なのだろうか。
 従うことしか知らない私を、きっと誰かが憎んでいるのだろう。




 静かな朝が訪れる時、美しい光が海水に射し込むときに。

 一人揺らぎながら頭上を見上げていた。
 なんて絶望的に美しい、この朝が。憎らしい。
 あの姫がついにこの海からだけではなく、世界から、消えてしまう。


 こぽりと、泡が生まれた。
 それはいくつもいくつも、幾千、幾億も。
 輝く水の中に生まれ、押し出すようにと上へ上へのぼって行った。
 反射を繰り返し、まるでこの光に乏しい海底を照らし出す灯のように、月のように。
 その眩しさに私はまるで痛むほどの眩暈を感じそして手を伸ばした。
 泡になった姫。愛する人とその手を結ぶことができなかった哀れな美しい、貴方。

 私はその一粒を優しく掬い上げ美しい細工の硝子瓶に閉じ込めた。


 真珠のように転がり狭い硝子瓶をふらふら揺れる泡沫はただただ哀れだ。しかし愛しさが募る。
 私は彼女を胸に抱き絶望に耐える。
 それしか術を知らず、それしかできる事はなかった。

 海と私と、そして誰もが。
 また愛しい姫の喪失をこの朝に再度知った。


20080801