#5
「おい、」
ドアの向こうで、もう一人の男が乱暴にノックした。
返事は発せられなかったが、勝手にドアをくぐり入ってくる。
「その坊主の家、この坊主を帰してくれるなら何でもするってさ」
「お前・・」
男がぐわんと後ろを振り向いた。怒りによるものなのか微かに震えている。ぼくの方からは男の背しか見えないが、もう一人の男はなにやら笑っている風だった。
「何勝手にんなことやってるんだ!俺が欲しいもんは金じゃねえんだ!制裁だ!上に居て、泥水かぶることも無い高みに居る連中に目にもの見せてやんだよ!!」
男の意識がぼくから離れた隙に、ぼくは急いで這って男達からできるだけ離れた。手酷く弄られた体が軋み、全身に苦痛を感じたが今それをしないと今度こそぼくの命の危機だ。
だんだんと迫る目に見えぬ闇に、ぼくはぶるりと身を震わせた。
来る。
闇・・・・
ひゅっと息を吸い込んだ瞬間・・
鼓膜の破れそうな爆音と共に壁がぶち破られた。小さな跳ねる物体を土埃と破片の合間に見た。
「うわぁ」
あいつが来ると思ったのに・・・しゅたっと着地し、ばしっとポーズを取るのは同じ屋敷に住む生態不明の少女ヘイヂだった。
一瞬呆気に取られたためか体の痛みを忘れ、あんぐりと口を開いた。
「まさか、ヘイヂが来るとは思わなかったよ」
[おいおい、友のためなら俺は一肌も二肌も脱いでやるぜ]
「や、あと少しぼくが動くの遅かったらぼく死んでたよ」
でも、おかしい。
あの時感じたのはどう考えても黒い瘴気だったはずだ。ヘイヂのむずむずする感覚ではない・・。
瓦礫の下に這いずり唸る男達を尻目に、ぼくは体の痛みに呻きながら壁伝いに立ち上がろうとする。
[無理すんなよ、リチャード。迎えがすぐに来る]
「ん。」
ちょこちょことぼくの方まで歩いてきたヘイヂが見上げて言った。
普段となんら変わりないようにぼくを見上げるヘイヂの顔を見ていると、ふと自分の中の張り詰めたものが緩む・・緊張が解けたような気がした。
「どうやらヘイヂに先を越されたようだね」
半壊してドアの取れた入り口から、ユーゼフが優雅な足取りで姿を現した。瓦礫を上手く避けながらヘイヂの横に並び、身を屈めた。
「手酷くやられたようだね、リチャード。辛かったろう」
いつものようなのんびりとした口調で言われ、ぼくはついに膝に力が入らずに床にずるりと座り込む。こみ上げるものを飲み下そうとし、それに失敗して嗚咽が漏れた。
「ふっ・・・ぼ、ぼく・・っ」
「リチャード、もういいんだ。泣きたいだけ泣きなさい。」
泣けと怒鳴ったあの男の声とは違う、労わりの馴染んだユーゼフの言葉にまた涙がこみ上げてくる。目元に痛いほど熱を感じ、嗚咽は止まることがなかった。
いつもなら慰めるように髪をいじるユーゼフの手が、今は一切触れようとしない。
その些細な気遣いがとてつもなく嬉しかった。
「ぐぅう・・」
「・・・っあ・・」
瓦礫の下から聞こえたうめき声に、ぼくはぶり返すような恐怖を感じ小さく声を上げてしまった。
もぞり、と瓦礫が動き男達が微かに意識を取り戻しつつあるようだった。
わかっている。ここにはユーゼフとヘイヂが居て彼らがぼくにもうなんの危害を加えることは出来ないということはしっかりと理性が理解している。しかし体に・・そして心の奥深くに刻まれ根付いた痛みと恐怖がぼくの全てを支配し、体を強ばらせる。嫌な汗がまたあふれ出し、手が震え、歯がかちかち鳴った。
「おや、活きが良いね・・・・・・・。」
呻く男達を振り向き、ユーゼフが声に微かに笑みを混ぜながら言った。
目の錯覚か、一瞬ユーゼフの背中に黒い瘴気を見てしまった気がした。
男達ががたがたと震えだした。本当の身の危険を感じたのだろう。
「ちょうど探していたんだよ。活きの良い生贄をね・・・・・・・」
フフフ・・と笑うユーゼフの瞳は、きっと凍てつく青をしていただろう。
男達の悲痛な悲鳴が上がる。
僕の意識は暗転した。
「リチャード様!!!」
必死な声がぼくの名を呼んだ。
ゆっくりと硬く瞑っていた瞼を押し上げると、最初に目に入ったのは深い青の色だった。
だれ・・
落ち着いたその青に息を小さく吐き、見つめる。
「あ・・・」
正気を取り戻したぼくを見て、セバスチャンの張り詰めた表情が緩む。
「大丈夫ですか、若様」
「ぼ、くは・・・」
ぎゅっと、掌に触れた手触りの良い布を握り締める。あとで気付いたがそれはさっきセバスチャンが着た濃紺のスーツだったらしい。しかし、今はただ何かにすがりたくて。
手に触れるものをしっかりと握ることがぼくに重要だった。
セバスチャンの背後には父の姿が見えた。
たやすく後ろを取らしてくれているセバスチャンに少々歓喜の表情を見せているようだけど、今の状況ではそれが無理だと承知しているようでなにかを堪えた顔をしている。
しかし、微かに憂いをそして慈しむ目で父はぼくを見下ろしていた。
「すまないね、諸君。息子は昔事件に巻き込まれたことがあってね、時々それを思い出して取り乱してしまうのだよ。」
しんとした店内に父の声が響いた。普段のふざけた声とは違い、場を鎮める威厳に満ちた声をしていた。
「君に問題があったわけではない、気を落とさぬようにな」
最後の言葉はツェルニーさんに言ったらしい。
さっきまで優しげに微笑んでいたツェルニーさんは申し訳なさそうな顔をして、頭を下げた。
ぼくが、本当はぼくがいけないのに。
「若様?」
「大丈夫・・だから・・・。ごめん、迷惑かけた・・・」
「謝る必要があるとは思えませんが」
ぼくの的外れな謝罪にセバスチャンは表情を変えずに言って、少し気分を害したように目を細めた。
「とにかく屋敷に戻りましょう。若様には落ち着いて、休息をとっていただきたいですからね。」
そう言って、セバスチャンはぼくを横抱きにしたまま店の出入り口に向かう。父が慌ててその後を追うのがちらりとセバスチャンの肩越しに見えた。
ドアをくぐる直前に、くるりとセバスチャンは振り向き店長を見つめた。
「注文したものは後日屋敷まで届けてください。」
なぜか場の主導権は、凛々しい少年セバスチャンが握っていた。
帰りの馬車も苦痛だった。
あの時無理やり押し込められた馬車とはまったく乗り心地は違うものだけど、微かな揺れと窮屈な小箱の中にいる自分が今も縛められているような気がしてくる。
時々添えられた手がゆっくりと撫でてくれることが、幸いだった。
ぬくもりがぼくを明るい場所へと引っ張り上げる。
隣りに座るセバスチャンの肩にもたれて、ぼくは移り往く景色を眺めていた。
視界の隅に、悔しげにハンカチを噛む父の姿が見えた。
ざまあみろ。
2007.5.16
ヘイヂとユー様(様!?)が助け出してくれました。
デーデマンはセバスチャンにお姫様だっこをしてもらい、元気だったらお花を飛ばして喜びますね・・