ぼくはうぐっと息を詰めた。
 どこかで硝子の割れる音を聴いた気がしたのだ。
 小さな破壊音に僕は身がかちこちに凍ったようで動けなくなる。
「リチャード?」
 ぼくをむりやりお茶に付き合わせたユーゼフがにこりと笑い見つめて声をかけてきた。
「いや、硝子の割れる音がしたから・・・」
「ああ、どうやらヘイヂたちが暴れているいるようだねえ」
「ちょっと・・・なにそのあっさりした物言い。中は今頃大惨事だよ・・・」
 ぼくはため息をつき、少し温くなったミルクと砂糖たっぷりの紅茶を啜る。

 セバスチャンが留学のためにこの屋敷を出てから早三ヶ月。暦は秋に移り変わり、その心境もなんだかからからとやや瑞々しさが足りない気がする。
 なにが楽しくてユーゼフとお茶をしなければいけないのかと考えると、やはりそんなやけに枯れた自分に嫌気がさしたからだとも言える。
 思考はいつも行ったり来たりで、微かに思い出すのはやけに印象深いあの日々だった。

 ぼくはいまや恐怖のかたまりだ。
 怯えるものがあまりに多すぎると思うし、それに対して安堵は微々たる物だ。
 その一つの要素、セバスチャンも今はここに居ない。
「考え事かい?」
 ふっとどこかを見て言葉を失ったぼくを、ユーゼフは顎を肘を立て組んだ手の甲に乗せてぼくを見つめていた。表情は、いつもの優しげな、そして得体の知れないこの笑み。
「別に・・・・」
「セバスチャンのことだろう?」
 にこっと笑いながら言って、ユーゼフは金の前髪から覗く青い瞳をぼくに向けている。
「つまらないって顔しているよ?」
 ぼくとのお茶のひとときなのに・・ね?そう囁いて覗き込む瞳はやけに魅惑的だ。そんな瞳に見つめられ、ぼくは小さく空気を飲む。
 ユーゼフはぼくが知るどんな人とも違う不思議な感覚を持つ男だ。
 もちろんのことだがセバスチャンとも、父とも。

 ユーゼフはぼくに蕩けるような笑みを向け言った。
「一体、君に刺さった棘はどういったものなんだい?」

 そんなものは、ぼくが一番知りたいことなのだ。

「君はあの事件の後から全てに対して妙に逃げ腰になっているようだね?」
 奥底に、怯えを含んだ瞳を見られ、まるで全てを見透かされたような気がした。
「たまには自分から行動してみるのもどうだい?そうやって大人しく花のような風情の君もいいけれど、そろそろ覇気のある笑みを浮かべていた行動的な君も恋しいよ」
 気障だ。と言うより、間違っている。
 思わぬセリフにぼくはまるで今飲み干した砂糖たっぷりの紅茶が一瞬で蒸発し、糖分全てがざーっと戻ってくるような気がした。

 つまり、気持ちが悪い。

 そんなぼくの心情を悟ったのかユーゼフはなんとも楽しそうに声を立てて笑い、ぼくの頭をぽんぽん撫でる、と言うか叩いてくる。
 頭を振ってそれを遮ると、ユーゼフは残念そうに・・・しかしあっさりとそれをやめる。
「せめて顔を赤らめてくれるくらいしてくれたら嬉しいんだけどねえ」
「ユーゼフを喜ばせてなんの意味があるのさ」

 ぼくのつんとした言葉に、ユーゼフはつれない子だねえとからりと笑った。



 それから数時間、屋敷の中のあまりの惨状に足を踏み入れることが出来ず、ぼくはその間ずっとユーゼフと二人で実りの無い話に花を咲かせていた。
 しばらくしてやっと疲れた顔をしたメイドのアンナが呼びに来た。
「それじゃあ、僕もそろそろ帰るよ。」
 そう言ってユーゼフはにっこりと笑い手を振りながら庭を歩いていく。

 しかし・・・・・ユーゼフはどこに向う気だ・・・。
 明らかに見当違いな方向へ向っている。
 方向音痴なのかそれとも壁でも突き抜けることができるのか・・・、しかしそれは謎に包まれ・・・・・・・。

 まあ、いいか。


 ぼくはその背中を見送った後、アンナと共に屋敷に戻った。
 ヘイヂが暴れたせいか、屋敷の中が微かに荒んでいる。
 未だに廊下を遮るように転々と転がる瓦礫を避けながらぼくは進み、よくもまあここまでやってくれた。とうんざりと顔を顰めた。
[よう、リチャード。どこに居たんだ?]
 どこからともなく、のっぺりとした顔をした小さな少女が手を掲げながら目の前に現れた。
「ヘイヂ・・・・。庭に居たんだよ。」
[俺は数時間前からお前を探していたぞ?ずっと庭に居たのか?]
「そうだよ・・・!君が暴れまわったおかげで数時間!ユーゼフと一緒にね・・・っ!」
 ふるふると拳を握り、ぼくは力強くヘイヂの所業を糾弾しようとする。

 でも・・・・・。

 この顔を見ると気が抜けてしまう。
 ユーゼフ同様、赤ん坊の頃から知っている相手だ。こっちは明らかに見た目からして人外だけど・・・しかし親しんだ姿に怒りがあまり持続してくれない。
「しばらく暴れるのやめてよね!ぼくを心臓発作や呼吸困難で殺す気?」
 ほんの些細なその刺激が、ぼくの保つバランスをいとも簡単に崩してしまうのは周知の事実だ。ある意味この屋敷に君臨する主のようなヘイヂが知らないわけが無い。
[リチャード・・・・・お前はいずれこのデーデマンを継ぐ男だ。]
「・・・。当たり前だろ。ぼくに兄弟なんていないよ。」
[そんな、人の上に立つべきお前が、そんな風に逃げてばかりでいいと思っているのか?]

 ・・・・・え?

 ぼくは息を飲み、ヘイヂを見下ろした。
 ヘイヂはぼくの言葉を待つように無言でぼくを見上げている。

「ぼくだって・・・・・こんなんじゃ駄目だと思ってるよ・・・。こんな風に怯えてばかりの自分が嫌でたまらない。」
[・・・・・・・。なら、なぜ・・・]
「でも・・・!駄目なんだ!どうしても、どうしてもそれらを克服したいと、前に進みたいと思ってもどうしてもそれが出来ないんだ・・・!体が怖いほどに硬直しちゃうんだよ!」
 必死の思いで搾り出した思いは、きゅうきゅうと絞まる喉をつっかえながら掠れてこぼれ出した。
 その情けない声色にさえ、瞳が潤んでいくのを感じる。なさけなくて仕方が無い。
[俺のダチは・・・親友はこんな弱い男ではなかったはずだ・・・。]
「ヘイヂ・・・・・」
[思い出せよ、かつて二人で・・・無茶をやってきたの頃を。リチャード、お前ならこの壁を粉々にぶっ壊してここまで地面を踏み締めてくることが出来る男だろう?・・・・・なあ、親友・・。]
 ニヒルな笑いを浮かべ(無表情で分からないが多分浮かべたつもりでいるだろう)ヘイヂはぼくにゆっくりと歩み寄り、ぼくに向って何かを差し出した。
「これは・・・?」
 ぼくは手に転がった硬い質感の物をまじまじと見つめた。
 それは黒い小さな箱のようなものだった。細いアンテナのようなものが突き出ていて、中心には赤いボタンがある。
 これは?とぼくはヘイヂを見つめた。
[いいかリチャード、覚悟を決めるんだ。お前は、今この瞬間から生まれ変わる。破壊される物に怯える事も無い、その齎される音に怯える事は無い。ただ真っすぐと前を見据えるんだ、そして自分自身を奮い起こせ!!!!!覚悟が出来たのなら、そのボタンを押すんだ]
「自分自身を・・・・奮い起こす・・・」
 ぼくは呟き、逡巡しながら手の中にある赤いボタンを凝視した。

[お前なら、前に進んでくれると信じてるぜ]

 それが、背を押す言葉だったのか・・・。
 この、赤いボタンを押すとき、ぼくは以前のぼく・・・否、それ以上に前を見て、胸を張って突っ走って行けるほどの人間になれるのだろうか。  あのしゃんとした背中を見せるセバスチャンの、隣りに立つことが出来る?

 ぼくは硬く目を瞑り、そしてゆっくりと瞼を押し上げる。

 大きく深呼吸し、ぼくはぐっとその赤いボタンに向って指を突き出した。

 逃げたくも無い、強い自分にぼくはなるんだ!!!!!!!!






















 その瞬間、ぼくの右手にずらりと並んだ窓ガラスが思わぬ衝撃に砕け散った。硬質の音がガシャンと散らばり、庭を挟んだ部屋の窓からもうもうと黒い煙と、恐ろしい程に赤い炎が立ち上がる。

 耳を麻痺させるほどの爆音が2・3度響き、屋敷中を振るわせた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 な・・・・なにが起こったと言うんだ。
 ぼくは無意識の恐怖に硬直しそうになる。
 使用人たちが驚き叫ぶ声が辺りから聞えて来る。

 な、なんで!なんで!

 脳裏に映るのは黒い影、揺れる炎。そしてぼくに伸ばされ痛めつけるそれは・・・・・・・

[リチャード・・・・!]

「へ、ヘイヂ・・・・」
[怯えるな、そんな必要は無い。分かるかリチャード。]
「な、なにさ?」
[これは誰の手で引き起こされたものでもない。お前を傷つけるために暴力によるものでもない。]
 淡々と語るヘイヂをぼくは訳が分からず見下ろした。
「・・・・・・・っ、ま、まさかこれ・・・・」
 嫌な予感がしてもう一度、この手の中にあるものを見つめる。
[この破壊はリチャード、お前を傷つけてはいないぜ。]
 ぼくははっと瞳を見開いた。
 こぼれる悲鳴、鼓膜を破るほどの恐怖を煽るあの音、声。
 なにも目の前には無い、しかし拭えないものが奥底に残る。
[一回で全てを終わらそうと思うな・・・!何度でも立ち向かって行け!それが勇気だ]
 そしてヘイヂはさあもう一度押すんだ!!とぼくを気迫の声で促す。

 ぼくは何度かボタンを押し、その度に聞こえる爆音に、恐怖と勇気の間で頭痛がするほどの揺らぎを感じた。
 そしてこれが、改善へと向うものなのかもしれない・・・・と、小さな確信を抱き始める。





 しばらくして、何度と続いた爆音轟音が過ぎ去った後・・・・
 デーデマン邸は屋根は跡形もなく吹っ飛び、ごろごろと大中小の瓦礫があちこちにちらばり、まるで力尽きたように項垂れる使用人や住人の姿がばらばら立っているだけだった。
 ヘイヂは脱ぎ捨てた皮たちと言葉に表せないほどの滾る気持ちを揺ら揺ら揺れて踊りながら表現している。ちょっと儀式っぽく見えるけど、今のぼくは気にしない。
 ぼくは瓦礫の間から広がる青空を見上げて、清涼感を感じている自分に胸が震えた。

 小さな、恐怖に対抗した自分にほんの少し感動し、そして心に決めた。

 ぼくは、負けない。
 いつか、この恐怖心全てを克服してみせる。

 怯えることなく、いつでも笑っていて見せると・・・・





「とんだ荒療治だな。屋敷を半壊させるとは・・・」
 広く簡素だが、整った部屋の椅子に腰掛け、セバスチャンは手に持った紙に目を通すと呆れたように笑った。
 それは定期的に届く彼の主、リチャードからの手紙だった。
 普段とは違い、その文面はやけに晴れ晴れしている。
 彼が追う文字は子供らしい少し力の入った、しかし簡素でなんとも整ったものだ。
 それを素早く読み上げ、最後に便箋の隅っこに小さく記された『愛してる』の文字に眉を顰める。
「まったく・・・誰に見られるとも分からない手紙に・・・・なにを書いているんだ」
 そう低く呟き、イライラと口元に手を当てながらセバスチャンは便箋を開封してぽっかりと口を開いた封筒が置いてある机上に無造作に放った。
 ひらりと柔らかく、それは封筒のすぐ隣りに落ちた。

 リチャード。

 彼は封筒に記された、彼の愛すべき主人の署名の字を目で追い、自分のその手のその下に隠された口元を笑みの形に吊り上げる。


「帰ったら、お仕置きですよ?」
 楽しげに言い、彼は主人の心情の全てを記された手紙を柔らかく見つめていた。




   2007.8.12
   今回のヘイヂのコンセプトは青春コーチでございます(何)
   こうしてデーデマンにあの破壊癖が付いたとか(妄想)
   シリアスだコメディだと色々見せかけ結局ただ病んでいるお話。



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