#15


 セバスチャンは勢い良く目前のドアを付きぬけ、灼熱の地獄から夜の森に躍り出る。
 一瞬の夜の冷気に肌があわ立つほどの寒気を感じた。
「はあ・・・死ぬかと思った・・・」
「俺がいるんですよ?無事に決まっています。」
 煤汚れているがセバスチャンはいつもと同じく涼しげに答え抱いていたぼくを下ろしてくれる。
 ずっと抱いてくれていいのだけど・・・
 しかしセバスチャンも疲労しているだろう、ぼくは抗わずに素直にセバスチャンから離れた。
 ふらつく体で後ろを振り向く。

 その目前には焼け落ちる寸前の、炎に包まれた偉大な洋館が。
「彼は・・・」
「多分、無事だと思います。あの男なら上手くやるでしょう。」
 セバスチャンもぼくの隣りで屋敷を見上げていた。
 ぼくは彼の煤だらけのそれでも清い横顔を見つめ、今度こそ緊張が解けるのを感じた。


 ゆっくりと、地に落ちる。





 暗い。
 ここはどこ。

 何も動かない。
 何も見えない。

 伝わる感覚は。
 激痛を荷う。



 ぼくはぼくを助けることは出来ない。

 かわいそうなぼく。
 泣き叫ぶぼくからぼくは目を逸らすことができない。




「リチャード様。」
 低く響く声がぼくを呼んだ。
 じんわりとした覚醒が米神をじんじんと痛めつける。
 頭の小さなその痛みは、微かな温度差を持ってぼくを目覚めへ追いやる。
 上へ上へ、下へ下へ。

「セバスチャン・・・?」
 ゆっくりと瞼を押し上げ、明るい視界に現れたのは見知った青年。美貌のぼくの好きな人。
「おはようございます。朝ですよ」
 相変わらずの無表情でセバスチャンは言い、手をそえぼくが起き上がるのを手伝ってくれる。

 あの誘拐の夜からまだ二日しか経っていない。
 顔や腹部に顔を顰めるほどの痛みを感じる。そして顰めた途端にまた引き攣れて痛みを感じる。腹立たしいほどの循環だ。
「傷みますか?」
「ちょっとね・・・セバスチャンの傷はどうなの?」
 ぼくはセバスチャンの右腕を見つめる。
 白いシャツ越しに、傷を隠す白い包帯を覗くように見る。
「大丈夫ですよ。掠ったくらいです。それよりも貴方の方が酷い傷を負っている。」
 優しく髪を擽るセバスチャンの大きな手を感じ、ぼくはくすぐったくて笑い身を捩る。
「いいよ、大丈夫。全部慣れてるから。詰られる事も、罵られることも、傷つけられることもね。」
 ぼくの言葉にも、セバスチャンの優しい手は止まる事は無く髪を優しく撫で、そのまま頬に降りてくる。
「あの時は、自分を呪ったんだ」
 なにをも呪った。自分に関係する全てを。
 幼い自分に許し難い仕打ちを施す男たち。その不愉快な手の生暖かい感触。頬を、体を、打ち続ける足。
 この世の階級や世界の仕組みや。
 幼いぼくには全てが信じられなくて、全てに見捨てられてのだと怯えた。

 思考に深く沈むぼくを、いつも引き上げるのはセバスチャンだ。

 彼がぼくの前に現れてから、彼を思わない時間はあまりに少なく、近頃は夢にさえ出てくるほどだ。
 ぼくは弱く瞳を閉じ、ぽすんと軽い音を立てるようにセバスチャンの肩に預けた。
「リチャード様?」
「セバスチャン、ごめんね。」

 ぼくは自分のことばかり。

 ぼくがあの時弱い意思に負けなければ、セバスチャンは傷を負うことは無かった。
「貴方が気を病む必要はない。」
「でも、ぼくはぼくを責めるしか、方法がわからない・・・!」
 緩む涙腺は、緊張とともに雁字搦めになり、そしてひたりと線を引く。

 欲求には素直に。
 それに従えば苦しくないとぼくは知っている。

 しかし現実的に考えるそれはとても痛みを伴うことなのだと頭の奥底がじんじんとその痛みとともに警告する。
 しかし触れる温もりにどうしても抗えないのだ。

 ぼくに触れているセバスチャンの大きな手はぼくを滑り、ぼくはその手を捕まえ絡ませた。
 動きは止まり、怖がらせないように優しくこの手に力を込めてくれる。
 ぼくは目前のセバスチャンの綺麗な顔を覗き見て、しかし何も言えずにその肩に頭を預けた。
 項垂れるように、縋るように。
 じんわりと伝わる温もりがどうしても離れ難い。
 それが、セバスチャンも同じならいい。
「リチャード様?」
「離れていかないで。」
「俺は貴方から離れるつもりはありませんが?」

「でも、行ってしまうんだろ?」
 そうだ。
 セバスチャンは、これから長い時間ぼくの傍を離れる。

「それは、貴方を守りたいからだ。」
 そう言って、ぼくの顔を上に向かせる。
 どんなに近くにその手が迫っても、ぼくは怖くない。
 今のぼくに怯えるものは多い。手に対する恐怖心は余計に強まり、破片が飛び散るほどの破壊的な音などにぼくは身がすくむどころではない恐怖がある。

 セバスチャンならいいのだ。
 なにをも、彼がくれるものならいい。

 間近で見詰め合って、ぼくは小さく笑ってみた。
 初めて出会った時、これほどまでに彼に心乱されそして穏やかな心持ちになるなんてこと思っても見なかった。
 彼の美しさはその姿だけではない、その内に潜むものは磨かれ黒く輝く宝石。
 飾るための宝石に興味はなくても、でも彼が孕むものならばなんでも甘受する。
 ぼくはゆっくりと背筋を伸ばし、セバスチャンにもっともっとと近づく。
 一度、深い青の瞳を見つめ。
 ぼくは瞼を下ろしセバスチャンに口付ける。

 ぼくから始めた触れ合いは、いつの間にかセバスチャンに主導権を握られる。
 敵うわけがない。
 優しく触れてくる感触は、額へ、閉じた瞼へ、目じり頬そして唇へ。
 撫でるような感触にぼくはくすぐったい気分になる。


 セバスチャンだけが、傷つけられたが故のこの後遺症をすり抜けてくれる。
 壁は壁でなく扉にかかった鍵を無力にする。
 彼ならばいい。
 喜んで迎え入れ、セバスチャンにまた鍵を掛けなおしてもらう。

 セバスチャンに依存すること。
 それが新たな、甘いほどの痛みを持つ後遺症なのだろうか。


   2007.7.4 了
     後遺症、本編終了です。
     これで・・・・やっとセバデーになったんでしょうか?
     でも「好きです」「ぼくも好きだよ」チックな感じにはならない(笑)
     言葉よりも触れ合いの方が大好きです・・・


novel  epilogue