一章 変化
先の戦いは、未だ多くの人々の心の奥底に爪痕を残していた。
神の眼をめぐる争いから発展し、現在・過去・未来、それらを全て繋ぎあった争いは数人の英雄によって幕を下ろされた。
しかし世界を救ったと言われる英雄視されている彼らの心にもまた、彼らにしか見ることの出来ない大きな傷跡を残していた。
それは戦いの最中に彼らの手を離した、少年によってつけられたものだった。
栄えた都から遠く離れたとある辺境の地の森の中に、小さな村がある。
豊かに緑が萌え、少ししか住んでいない人々の表情も穏やかなものだ。若者の少ないその村に、数年前越してきた青年がいた。
眩いほどの素晴らしい金髪を首元にざんばらに短く散らしていて、瞳は空とも海とも言い難い奇妙なほど澄んで美しい青の色をしている。整った顔にはいつも人のよさそうな笑みが浮かんでおり、体つきはひょろりとしているが村人に一発で好感を与えた好青年だ。
彼はスタンと名乗り、その村にあった誰も住んでいなかったうち捨てられた小さな小屋に住み始めた。
村人たちは歓迎の意を示しスタンに協力し打ち捨てられた小屋を見事住みやすい家へと変貌させた。
スタンはそれから数年間、ずっとその小屋に一人で住んでいる。
勿論、スタンほど容貌の整っていて優しい好青年に好感をもつ若い娘は何人かいたのだが、それをスタンはようとして受け入れることをしなかった。
村の古株に話を持ちかけられても首を縦に振ることはなかった。
そしてその都度、彼は申し訳なさそうに謝るのだがその度に一瞬その煌めく瞳に暗い何かを翳らせてしまう。彼には誰か心に決めていて、そして忘れることのかなわない人がいたのだろう。
村人たちはそれをついに悟り、そして何時も優しい笑顔でいる青年の笑顔をこれ以上悲しげに曇らせることをよしとすることはなかった。
数ヵ月後には見合い話の嵐も収まり、スタンがやってきてはじめての揉め事ともいえないような出来事は終局を迎えた。
その日もスタンは遅い朝を迎えていた。(彼の寝坊癖に対しても村人たちはもう何も言わない)スタンは朝(昼だが)起きたら井戸に向かい水汲みをする。その場で顔を洗い、そして、木で出来たバケツに水を汲み、家にある大きな瓶に注ぐのだ。それが生活用水となる。
そしてその後朝食をとり、森に狩りに出たり木の実を集めに行ったり、または村人たちの畑の手伝いなどもする。
緩やかに平凡に時が流れてゆくのをそれに任せて過していく。それが今のスタンの日常なのだった。
今日も井戸に向かおうと、スタンは木のバケツを片手に提げて外に続くドアを開ける。
一歩踏み出そうとしたとき、スタンは普段とは違うものを見つける。村に続く道に、人が倒れている。
頭はスタンのほうを向いていて、しかしうつぶせのため艶やかな黒髪が地に広がっているのしか見えずに、どんな顔をしているのかも分からない。身長は高くもなく、その体躯はとても華奢でたおやかな女の様でもあり成長の始めの少年の様でもあった。
一瞬、スタンの脳裏に既視感とも言える映像が過ぎる。
ああ、昔見た、あの時の光景になんて似ているんだろう。
あの信頼していた少年が自分たちの心を手放したときだろうか、それとも自分たちこそが彼の姿を追うことを止めてしまっていたのだろうか。
考えても仕方がないことは分かっている。
彼はもうこの世界にはいないのだ。
その名前すらも、もう残ってはいないのだろうか?
スタンは顔を振り思考を中断させる。もう、あのときのことは考えないようにすると決めていた。
スタンは道に倒れる黒髪の人を仰向けに起こす。
黒い前髪に白い顔が覗く。
見たくない。でも、知ってしまう。
何か、変わる予感がスタンはしっかりと感じ取ってしまう。
前髪に隠れていたその人の顔が伺い知れたとき、スタンは小さな悲鳴を上げそうになる。
血が、すっと体中を駆け巡る・・・いや、逃げていく。自分の顔色がどんどん悪くなるのが分かる。
その人を抱き起こしている両手が震える。
爽やかな風が頬とあの時とは違い短く切られた髪を撫でる。
森の木々はしかし不穏そうにざわめき、葉を揺らし、青い空に浮かぶ白い雲の流れは恐ろしさを感じさせるほど早かった。
何も考えられない。
抱き起こしたその人の顔は、顔にかかる艶やかな前髪に隠れていたその顔は、妖しいほどに美しい。
整った弧を描く眉。閉じられた白いまぶたと吃驚するほどに長い睫毛。すっと通った彫りの深い鼻筋に、色が白いくせに其処だけが紅く色づいているような形のいい薄い唇。とがった白い顎に滑らかな首筋。
知っている。
この人を自分はよく知っているのだ。
・・・リオン――――――。
その名が脳裏にまるで稲妻が轟くかのように衝撃をもたらして現れる。
スタンはその衝撃に身動きさえ取れなくなり一瞬自分の存在さえもかき消されてしまう様な気がした。
そんな混乱した中でスタンはひそかに思った。
やはり彼はあの不遜な紫の鋭い眼光で自分を見つめるのだろうか、と。
そうならばいい。リオンのアメジストの瞳をあの頃自分はとても好いていたから。
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